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熊野三社関係

更新日:2024年1月10日更新 印刷ページ表示

東北の熊野文化の交流について-名取熊野三山を中心として-ページの下部に、名取熊野三山の紹介パンフレット(PDF版)を掲載しています。

東北の熊野信仰の受容と背景

 東北地方には、全国に3,135社ある熊野ゆかりの神社のうち、全体の4分の1に及ぶ736社の熊野神社があるとされています。
 熊野信仰が都だけでなく全国に広がる中、遠隔地である東北地方に関するものとしては、「熊野年代記」に渡海と呼ばれる捨身行に延喜19年(919年)に陸奥国の13人が同行したことが書かれており、また、名取の熊野三社勧請に深く関わった陸奥国に住む老女に関する和歌が、平安時代末期頃に成立した「袋草子」に収められています。このように、東北地方の熊野信仰は、平安時代末期(12世紀)頃から本格的に受容されたとされ、熊野神社が各地に勧請(かんじょう)されていったと考えられています。
 中世になると、はるばる紀州熊野三山を詣でた東北地方の人々の記録や、熊野信仰の布教などに関わった宗教者たちの記録が多くなり、活発に活動していたことが知られています。
 現在、東北地方に熊野信仰に関わる文化財が数多く伝わっていることから、いたるところで熊野信仰が根付き、人々の暮らしに溶け込みながら今でも尊崇を集め続けていることが伺えます。

名取熊野三山の勧請と布教

 紀州(和歌山県)熊野の地は、古くから自然信仰の聖地・霊地として人々尊崇の対象で特別な地域とされてきました。
 熊野三山の内、最も古いとされる本宮大社は家津御子神(キツミコノカミ)、新宮大社は熊野川の下流にあり速玉神(ハヤタマノカミ)、那智大社は飛龍権現ともいわれ、那智の大滝を御神体とし古くから行者の修行の場であったが、後に夫須美神(ムスビノカミ)(生産神)を祀っています。三山信仰が盛んになり、特に平安末期頃仏教と神道の神仏習合に浄土信仰が結びついて発展し(熊野の場合は、本宮社の神=阿弥陀、新宮社の神=薬師、那智社の神=千手観音と同一:熊野は三尊が集まる浄土)、熊野三山には熊野三所制度が確立し、熊野山伏や先達によって熊野信仰が広がっていきました。
 東北地方における名取熊野三社については、仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に模して、本宮、新宮、那智の三社が他の地域と異なり別々に勧請されています。名取熊野本宮社は家津御子神、新宮社は速玉神、那智神社は夫須美神を主神として社も別々に建てられ、縮小版的で、まさに、紀州熊野三山の世界を再現するかのような勧請のされ方は、名取熊野三社は東北太平洋沿いにおける熊野信仰布教の一大拠点としてふさわしい姿であったと考えられます。
 名取熊野神社の縁起によれば、保安年間(1120~1124)に名取老女によって勧請されたと伝えられていますが、文献記録などから既に平安時代の終わり頃には熊野三社は存在していたと考えられています。「吾妻鏡」文治5年(1189年)からは、名取熊野の金剛別当秀綱は奥州藤原泰衡の後見人として強大に勢力を誇っていたことが知られ、このことから、名取熊野別当は東北では軍事的に武士団の棟梁で、宗教的には熊野権現の名において修験教団の管長であったことがわかります。

名取熊野三社の様相

1地理と歴史的環境

(1)地理的環境

 熊野三社について、本宮社は高舘熊野堂字五反田34、旧新宮社は高舘熊野堂字岩口上51、那智神社は高舘吉田字舘山8にかけて所在し、JR東北本線名取駅の北西約5~8kmの付近に位置しています。
 熊野三社の所在する一帯は、本宮社は五反田山の山麓沿いの名取川河岸段丘上、旧新宮社は大門山山麓端の扇状地、那智神社は標高200m前後の高舘丘陵山頂付近に鎮座しています。これらの地域は古代の東山道(東街道)、中世の奥大道が通り、一方奥羽山脈を越え出羽の最上(今の山形県)への道もあり、陸路交通の要衝の地でもありました。

名取熊野三社等の位置

(2)歴史的環境

 高舘丘陵北端付近は、名取熊野三社(本宮、新宮、那智)勧請の地として、それらに関連する文化財が多い。
 高舘丘陵の名取川東岸に鎮座する本宮社付近は、鳥居前方の旧参道沿いの宿坊群跡や名取川の水運を利用した船発着場などが推定されています。また、本宮社南背後の名取熊野深山霊域ともいうべきところには、中世の熊野堂大館跡、小館跡が所在していました。
 また、旧新宮社付近は、神社を中心に旧参道の東西へ別当坊や学頭坊をはじめとする宿坊群跡(17坊)が所在しており、特に宿坊の一つの往生院跡の西側一帯にある大門山には、熊野信仰に関連する大規模な中世の墓所・供養所(板碑群が所在)が確認されています。
 さらに、那智神社付近には、那智経塚群をはじめ、那智神社別当物響寺跡、中世の山城である高舘城跡、那智神社宿坊跡が所在しています。

名取熊野三社

(1)熊野本宮社

熊野本宮社写真
 本宮社は、本宮十二神とも称されており、本殿が現在地に遷宮したのは万治元年(1658)とされ、以前は現在より500mほど離れた小館と称する山上に鎮座していたと伝えられています。
 主神は家津御子神を祭り、作物神となっています。社殿については明治38年(1906)宮城県へ提出した「熊野本宮神社調査書」によると、元禄元年(1688)改築、長床は延宝4年(1676)改築となっています。
 また、当社所蔵の「名取熊野本宮永留」によれば、永禄6年(1563)伊達晴宗公より本宮社へ神輿、御神馬、御馬道具一式が奉納されています。伊達政宗公の仙台開府以後は、元禄3年(1690)4月8日の御祭礼以後、伊達藩から毎年玄米3石5斗拝領することとなりました。
 当社には、新宮社と深く関わる神事として、北釜へのお浜降りや流鏑馬などが伝わっていましたが、現在では行われていません。
 なお、現在では、古く山伏によって伝えられたという市指定無形民俗文化財の「熊野堂十二神鹿踊」が、保存継承されています。

  • 所在地
    名取市高舘熊野堂字五反田34
  • 連絡先
    Tel 022(386)2353(宮司宅)
  • 位置
    JR名取駅から約7.0km南仙台駅から約4.5km
  • 交通案内
    バス 宮城交通(株)尚絅学院大線・ライフタウン名取線 熊野堂温泉入口停留所徒歩約10分

 ※春例祭:4月第2日曜日 秋例祭:10月体育の日

(2)熊野神社(旧新宮社)

熊野神社(旧新宮社)写真
 名取熊野三社の中で最も中心を成していたのが旧新宮社のため、熊野神社と総称されることとなりました。この神社の主神は速玉神を祭り、東北でも屈指の神社の一つとされています。
 神社所蔵の資料では、文献上、名取熊野新宮の初見は、暦応4年(1341)の平泰経の寄進状(熊野神社文書)ですが、「吾妻鏡」には熊野別当等の名が見られることから、名取熊野神社に関わる修験集団は名取地方を中心に強大な勢力を持っていたことが伺えます。
 当社が中世においても武士階層の土壌に根をおろし広く信仰を集めたことは、当社が所蔵する古文書(熊野神社文書)より数々の武士層からの寄進状によって知ることができます。伊達氏の時代においても、永正11年(1514)稙宗が神領の棟役段銭を免除したことを先例として、晴宗、輝宗、政宗による免除が行われ、以後、歴代藩主の種々寄進、奉納を受け伊達家と深い結びつきを持っていたことが知られています。
 次に、新宮社の社殿については、貞享年間(1684~87)に書かれた古絵図や「安永風土記」、「熊野三山古跡書上」などから、長床の奥に玉垣で区画された聖域(奥の院)があり、中央に証誠殿、東側に那智飛龍権現社、西側に十二社権現社と勧請伝承に関わる名取老女の宮が並列して建っています。
 証誠殿は那智飛龍権現社と同様1間四方の県内唯一の熊野造の様式をもち、十二社権現社は3間1間で三間社流造(別名:二社造)の様式となっています。建築年代は、証誠殿の高欄擬宝珠に正保2年(1645)の銘、また、寛文4年(1664)伊達藩4代藩主綱村造営の棟札などがあり、江戸時代の初めに改築または新築したかは定かでないが、近世初頭頃の建築様式と考えられています。
 この神社は、明治元年(1868)3月の太政官布達「神仏判然令」により神仏合祀が禁じられたことから、熊野神社所蔵の本地仏をはじめ、法華経、一切経、大般若経、仏具等仏教色のものはすべて文殊堂に移され、文殊堂(左下の写真)も神社境内の南へ移動されて熊野山新宮寺(右下の写真)に帰属することとなりました。
 なお、当社には宮城県指定の無形民俗文化財の「熊野堂神楽」と門外不出の「熊野堂舞楽」が保存継承されています。

文殊堂
文殊堂写真

熊野山新宮寺
熊野山新宮寺写真

  • 所在地
    名取市高舘熊野堂字岩口上51
  • 連絡先
    Tel 022(386)8838
  • 位置
    JR名取駅から約5.5km南仙台駅から約3.5km
  • 交通案内
    バス 熊野堂停留所から徒歩約5分(なとりん号:相互台線,宮城交通尚絅学院大線)

 ※春例祭:4月第3日曜日 秋例祭:10月第2日曜日

(3)熊野那智神社

熊野那智神社写真
 那智神社は、高舘山の山頂に鎮座し、眼下に名取平野と太平洋を望み(左下の写真)、この神社由来伝説と関係の深い閖上浜を眺めることができます。神社の背後の谷には滝があり不動尊(右下の写真)が祀られ、この神社の立地や景観は紀州熊野の那智山に類似していると言われています。
 当社の由来伝説は、養老3年(719)閖上浜の漁師冶兵衛が海底から御神体を引き上げたところ、その光の輝きの止まる所が高舘山であったことから、そこに宮社を建て羽黒権現として祭りました。
 その後、保安4年(1123)名取老女が那智宮の分霊を合祀して那智神社と改称したとされています。
 主神は、熊野夫須美神を祭り、旧暦6月10日が恒例祭で昔は閖上浜まで浜降りの神事が行われ、正月には「カラスゴ(牛玉宝印)」を氏子に配布していました。
 近世は、伊達家の厚い崇敬を受けて、明治時代になるまでは別当寺物響寺の支配下にありました。
 明治元年の太政官布による神仏分離で、社殿に奉納されていた御正体である懸仏などは関係者によって密かに埋められたものが、明治31年(1898)7月の拝殿移築の際床下から再発見されました。現在では、その懸仏・銅鏡41点が国指定、懸仏114点が県指定文化財となっています。

名取平野と太平洋
名取平野と太平洋写真

不動尊
不動尊写真

  • 所在地
    名取市高舘吉田字舘山8
  • 連絡先
    Tel 022(765)8217
  • 位置
    JR名取駅から約5.5km南仙台駅から約5.0km
  • 交通案内
    バス 那智が丘2丁目停留所から徒歩約15分(なとりん号:相互台線、宮城交通(株)尚絅学院大線)

 車でお越しの方は那智が丘団地方面から来ていただくのが便利です

 ※例大祭:4月29日 恒例祭:7月20日

名取熊野三山-熊野信仰とその歴史遺産-

 以下のPDFデータをご覧ください。

名取熊野三山-熊野信仰とその歴史遺産-[PDFファイル/2.44MB]

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