【東日本大震災における地元企業、団体の支援活動紹介】
サッポロビール仙台工場 避難所提供、炊き出し支援

震災後、避難所提供や炊き出しの支援を頂いた、サッポロビール仙台工場の仲本工場長と、サッポロビール園の金森支配人にお話しを伺いました。

― 震災直後の様子はどうでしたか?

サッポロビール仙台 仲本工場長

 地震がおさまってから社員、関係者は避難訓練通りに工場内のグラウンドに揃い、点呼の後、待機していました。余震が激しかったので腰が抜けて立てなくなった人もいました。

 そうこうしている間に、近所の人達が次々と工場に避難してきました。非常に寒い日でしたので、外に皆さんを立たせたままにもいかず、幸いゲストホール内の被害は軽微であったため、とりあえずゲストホールに住民の方々を案内しました。そして、隣の会議室には従業員を入れて対策本部にしました。

 結局、200人ぐらいの住民の人が工場で夜を明かしたと思います。

 工場の非常用発電機を稼働させて電灯を点け、ホールの入口にて携帯の充電をして頂いたり、保管してあった防寒具や、又、売店にあった、ビアクラッカー、豆などおつまみ系、ジュース、お茶などの飲料水を提供しました。

 従業員は、20人~30人が宿泊し、3交代で発電機にガソリン補給など行いました。工場屋上の水槽に水があるうちはトイレもOKでしたが、なくなってからは、敷地内の遠くの水タンクの水を運んでトイレに使っていたので、この水の運搬も社員が交代で行いました。

サッポロビール園にて
炊き出しに並ぶ人々

 この地区の正式な避難場所は西公民館なのですが、サッポロビールの工場にも人々が集まってきたようです。

 市の方も、民間の企業もできるところはお願いします、というスタンスで、パンなどの食事を適時支給して頂きましたが、13日以降は、ビール園で炊き出しを始めました。

 JAの役員もされている鹿又産業さんのところに12日の夜に伺ってお米を手配頂き、炊き出しに使用しました。

 ジュース、飲料水については、工場倉庫内の6000ケース分を、名取市の災害対策本部や避難所、被災者や被災地で作業している皆様に提供しました。搬送には今慶興産さんにもご協力頂きました。また、亘理町、山元町で消防団活動をしている工場従業員がトラックで飲料水を運んだりもしました。さらに、南三陸町、南相馬市、気仙沼の大島にも、従業員の知人を通じて飲料水を送っています。

― トラックで支援物資も運び込んだと聞きましたが

 本社からトラックで支援物資が届きました。第一便は13日の夜に東京を出て、14日の朝に着きました。非常用災害トラックとして警察署に届け出て、自衛隊や救急車など非常用の車しか走っていない閉鎖されている高速道路を走ってきたようです。トイレットペーパ、粉ミルク、紙おむつ、生理用品などもあり、最初はこんなものが必要か?と思いましたが、すぐに住民の人達から、これらのものを求められたので良かったです。それ以降も、当社のスナックや、毛布・タオルなどが届けられました。

― 炊き出しの食材は?

サッポロビール園 金森支配人

 ごはん(米)は手配できていて(上述)、最初はビール園の冷蔵庫にあったものを使いましたが、4,5日するとおかずがなくなってきました。増田西小に(炊き出しを持って)行った時に、櫻井さん(ゆりあげ港朝市組合会長)に会ったのですが、その後、彼が何らかの食材をビール園に運んでくれるようになりました。3月中のことです。

 後は、チェーン店や取引先、北海道からも4月上旬から食材を送って頂きました。又、サッポロライオンでは会社をあげて継続しようと、組織的に応援もらいました。

― どうやってどれくらい用意したのですか?

 その場所毎でできる限りニーズを聞きながら、ビール園で調理して運びました。
ご飯も炊ける量が限られていた(1回に100人分)ので、自衛隊がご飯を炊けるところはお願いし、それ以外の炊く能力がないところにご飯を持っていきました。

各避難所への炊き出し支援の様子

 炊き出しはビール園の社員に仕事して行い、支援をしました。1日に500~1000人分の料理を用意し、曜日毎に、例えば文化会館は月木、館腰は火金、といった具合に。

 他でも支援されるところがあり、又単発でもあったので、こんな風に何曜日と決まっていると、その空いた日に他の支援が入るようになったようです。

 始めは一人一人並んで頂いて配っていましたが、そうすると1か所だけになってしまうので、途中からは避難所の方々に配膳をお願いしました。これをはじめてから行ける件数が増えました。

 避難所は全てまわり、市の災害対策本部からもいろいろと届けられていましたが、肉が不足しているというのでその日のうちにハンバーグを届けた避難所もありました。又、魚を食べていないと聞くと、櫻井さんが用意してくれたサバを出したりしました。

 3月13日から6月4日(土)までに累計5万食を用意し、6月5日に始めて、炊き出しがとぎれました。というのは、4日に避難所が集約され、9か所が2か所になり、たまたま配布する日ではなかったからです。

― ところで、牛を飼っていたと聞きましたが

 12日の夜、工場近くを牛2頭が徘徊していると住民から連絡がありました。警備員が連絡して、警官とともに、工場の西門隣の空き地に追い込みロープをはりました。近くの人は水をあげたりしていました。工場にはモルトフィールドという牛の高級食材があったのですが、あまり食べなかったですね。食べ慣れていなかったのでしょうか。

 氷点下まで下がって寒かった日だったし、牛がだんだん元気がなくなるので、心配していたところ、宮農(宮城農業高等学校)の先生がうちの牛といって、干し草を手配されましたが、干し草は良く食べましたよ。

 近所の方が、宮農の牛ではないか、と連絡して下さったようです。宮農では34頭の牛を飼っていたそうですが、全て、津波が来る直前に離したそうです。先生、生徒は高台にいたそうですが。

 牛の避難先を探しているところというので、しばらく預かりました。牛は34頭のうち、14頭が無事だったそうです。
結局、2頭の牛は、3月12日~18日までうちの工場にいて、18日に加美町の加美農業へ引き取られました。

平成23年6月8日 10時~ 取材


※取材後、炊き出しは6/20に最後の避難者が仮設住宅に入居されたことで終了したそうです。

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