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ひとくち市史 第十一回 中世の幕開けと名取郡

更新日:2025年12月11日更新 印刷ページ表示

 11世紀後半から、源頼義(みなもとのよりよし)・義家(よしいえ)を始めとする武士が台頭し始めました。1180年代、源頼朝(みなもとのよりとも)が鎌倉で樹立した武家政権の力は、源平合戦・奥州合戦を経て絶大なものとなりました。建久3(1192)年には、頼朝が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任じられ、「鎌倉幕府」が開かれました。11世紀後半の武士の台頭から幕府の創設までの壮大な歴史の中で、名取郡はどうあったのでしょうか。

 

 文治5(1189)年、源頼朝が28万4千の大軍を三手に分けて、東北に攻め込みました。それを阻むため、藤原泰衡(ふじわらのやすひら)は阿津賀志(あつかしやま)山(福島県国見町)に壁と堀を築き、名取川・広瀬川に大縄の柵を引きました。泰衡軍は8月8日から阿津賀志山で頼朝軍と激戦を繰り広げましたが、大敗を喫しました。泰衡は出羽に逃走中、郎従(ろうじゅう)に裏切られ死亡しました。百年の栄華を誇った平泉藤原氏はここで幕を閉じます。『吾妻鏡』文治5年10月2日条に「名取郡司」・「熊野別当」の名前があります。「熊野別当」は泰衡の後見人で、名取熊野三山の関係者という説があります。「名取郡司」が誰かは不明ですが、泰衡側に付き、頼朝の捕虜となったことから、当時の名取郡は平泉藤原氏の影響下にあったことが考えられます。

 

 奥州合戦の結果、名取郡の地頭職(じとうしょく)は和田義盛(わだよしもり)となりましたが、建保元(1213)年、和田義盛が反乱を起こし、幕府に滅ぼされました(和田合戦)。その結果、名取郡は三浦義村(みうらよしむら)の領地となりました。その後、三浦氏は幕府執権・北条氏と対立しました。宝治元(1247)年、両氏は鎌倉で争い、三浦氏が敗れ滅亡しました(宝治合戦)。その領地である名取郡は、今度は北条氏宗家の領地(得宗領)となりました。それ以後、名取郡は鎌倉幕府が滅亡するまで北条得宗領とされました。

 

 奥州合戦以後の名取郡における武士の動向については、令和11年度に刊行予定の新『名取市史』通史編2「中世・近世」に収録する予定です。どうぞご期待ください。

 

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画像出典情報

画像:中世武士の姿(『後三年合戦絵詞』より)

出典:国立文化財機構所蔵品統合検索システム

https://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/A-11187?locale=ja