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ひとくち市史 第十二回 神社と寺院の結び付き
文化庁宗務課が実施している宗教統計調査によると、令和6年(2024)12月31日現在、日本では神道の信者が86,359,612人、仏教の信者が80,463,918人を数え、両方を合わせた信者数は1億6700万人ほどにもなります。一方、総務省統計局による人口推計を見ると、令和6年10月1日現在の日本の人口は1億2400万人弱となっています。
つまり、神道と仏教の信者数が、生まれたての赤ん坊も含む総人口を4000万人ほど上回っているのです。
神道と仏教が渾然一体となった日本の宗教事情は「神仏習合」【しんぶつしゅうごう】とも呼ばれています。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて、神の正体(本地)は仏だとする、「本地垂迹」【ほんじすいじゃく】という考え方が広まりました。
また、江戸時代になると、「寺請制度」【てらうけせいど】という、全ての人は寺院の檀那(檀家)になる(寺院に所属する)制度が幕府により定められました。この制度の影響もあり、神社を「別当」【べっとう】と呼ばれる寺院が管理するという仕組みも強化されていきました。思想的にも制度的にも、900年ほどの間、日本では神と仏が一体となって人々の信仰の受け皿になってきたのです。
名取市内の神社と寺院を見ると、江戸時代、明和9年(1772)に成立した『封内風土記』【ほうないふどき】という記録には、熊野新宮證誠殿(いまの熊野神社)の別当は「学頭」(いまの新宮寺)であると書かれています。また、熊野新宮と同じ「熊野堂三社」の1つとされる那智権現(いまの熊野那智神社)の別当は「物響寺」が務めていたとあります(この寺院は現存していません)。ちなみに、「熊野堂三社」のもう1社、本宮十二社権現(いまの熊野本宮社)については「薬師堂」もあり「五郎右衛門」という者がその管理をしていると書かれています。
こうした、神(神社)と仏(寺院)への信仰の融合は、明治維新における「神仏分離」【しんぶつぶんり】によって、空間の側面でも分けられました。例えば、いまの熊野神社の境内にあった文殊堂は仏教の施設のため、境内の外に移されました。
とはいえ、神と仏が分離されているのはこの150年ほどのことで、結び付きの年月はその6倍ほどあります。そのため現在も、大晦日には除夜の鐘を鳴らしに寺院に行きつつ、一夜明けた元旦には神社に初詣に行くような、神も仏も分け隔てなく信仰することが違和感なく受け入れられているのかも知れません。
7月5日(日曜日)からは、名取の熊野信仰における神と仏のコラボレーションを
テーマに、「なとり市史企画展」を開催します(企画展関連の詳細は次号でお知らせ
します)。これまであまり公開されていないような貴重な資料も展示しますので、
ぜひ、会場(市歴史民俗資料館)まで、お越しください。

熊野那智神社の懸仏(聖観音、鎌倉時代の作)。
神を表す鏡とその正体である仏が一体となっているため
「御正体」とも呼ばれます。


