本文
登録文化財
市内に現存する板碑の中でも特に宗教・歴史的に重要な板碑の一つである。
碑文中の書写法華経を全国六十六ヶ所の霊場に納めて行脚する風習は、一般的に室町時代からはじまったとされている。碑文からすでに南北朝時代より行われていたことを示す資料として中世の供養のあり方を知る上で重要である。
鎌倉幕府執権北条氏の地方所領の統治は、諸郡(庄・保)の村・郷単位に地頭代(給主)を任命し支配をまかせる方式の他に、直接郡(庄・保)ごとに政所を設置し現地の有力者を所務代官に採用し支配させた。
後者の支配方式は、早くから北条氏の得宗領となった津軽地方、遠田・名取郡などにみられる。文献記録から、名取郡土師塚郷、四郎丸郷(若四郎名・おたかせ村)は曽我氏が地頭代職を兼ねていたことが知られる。
一方、曽我氏支配所領の近接地で確認される玄徳の板碑文から余田政所(代官は余田氏か)の置かれていたことが知られる。このことは、名取郡における中世鎌倉時代後半頃の政治的支配体制や経済面に関する情勢の一端を示す資料として極めて貴重なものである。